昭和57年4月11日朝のご理解
入力者大坪寿子
御理解68節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をだしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
(2代ご理解)
ほんとにあのー、神がものをいうて下さるような気がする。その実感が一番つよーするんですが、えー、昨夜、月なみ祭の後に、お話させていただきました、おや、わたくしのお話の内容って言うのは、えー、三年前の親先生のご理解がこの68節からでたんですね。であたくしが、今ここ開かせていただいた、この68節なんですよ。はーしかもあのー、親先生が、あの、ごしゅ、福岡のご修行時代に、えー、結局わたくしのは苦労ではなかったんだと。身に徳を受ける修行、であったということなんですね。お互いのしゅぎょ、それこそ苦労は、苦労で終わっておるから、いつまでたっても道が開けない。「あーなんでこんなに難儀せなきゃいけないんだろうか」ということになるんだけど、おー、昨日わたくしがお話をさせていただいて、下がらせていただいて、けどあのー、ご修行時代にあのような難儀の中に、あのような難儀の中に、どうしてああいう、うー、喜びというものがあっただろうかとおもうて、また改めてそのテープを聞かせていただきました。そしたら、「もうわたくしはその、それこそ博多の町をタオルを売りに、一日中歩かせていただいたけれど、タオル一本が売れなかった」と、そしてご神前に額づいたときに、たぎるような喜びを感じておりましたと、いう、言われるんですね。ほんとに、恐れ入ってしまうんです。お互い、どうでしょうか。ほんとにそういう難儀があるときに、どれだけの喜びがあるでしょうか。またうんなら難儀がない。これだけおかげを頂いておるという時に、そげそういうたぎるような喜びがあるということを、お互いあるだろうかと言う事を、ほんとに思わせていただかなきゃいけない。結局、親先生の場合、もう自分が色んな修行をやってみて、道が開けない、心がひらけない、そして思いつかれたのが、「よし、わたくしのようなものでも、神様の願いがかかっておるではなかろうか」と、まー、今のまー言葉で言うなら、「心願があるだろう。よしその心願を受けてみよう」という思い立たれたんですね。そこからそれこそ、そういう過酷な修行のなかにあっても、こどもたちにそういう、それこそ、十分な物を食わせられない状態、きせられないような状態にあって、ほんっとに、子供ともども修行させていただいてありがたいという、うー、それこそたぎるような喜びを、そういう中に味わわれたというところに、わたくし達の信心の眼目というものがね、ほんっとに御神願の、私にかけられてる御神願が、わたくしがこの世に生を受けておるということの御神願が、十分に現そうと言う信心に、し、あのー、信心の、焦点が置かれなきゃ、いつまでたっても、やっぱり、このご理解じゃないけど、ちょっと雨が降ったら、風が吹いたら、「あー、しるしいなー。なんときつい事だろうか」と言う事になるんじゃないでしょうか。
えーわたくしは一人で今日は、感動しております。ほんとに3年前のそのご理解が68節。そして、まー今日は親先生が突然下がられて、まー、いまからご祈念しなさいというて、ご祈念させていただいて、何にもないままに、広げさせていただいた。そこに、また68節という、ほんっとにもう、神ながらに、それこそ、うー、これこそ、それこそ、うーん、ここんでいうなら、無理に大きな声をさせるにも、及ばぬ。小さな音でも、神に聞こえると言う、ことですねー。そういう内容を思います。ほんとにわたくし達の、今日只今が、どれだけほどしに、喜びに満ちたものであるかっていうことを、思います。思わなきゃいけないんじゃないでしょうか。
えー、それと同時に、このように親先生のお体の、御具合が悪い。そしてえー、このように、任されてみて、うーん、お互い、
昨日ある方が、「信心と言うのはほんっとに、思い荷物をかろうておるように思うとりましたけれども、最近、黙って治めると言う信心がみについてきたら、こんなに信心がたのしかったんだろうか。面白かったんだろうかと言う事を、気づかせていただきました」と言う方がおられたんですけれども、お互い信心、本当に、あのー、重荷になっていないでしょうか。例えば、ほんとに言葉が悪いですけれども、えー、親先生がもしおられないとして、「いやー、もう、あのー、それこそ、おー、信心が楽しいものだ。」としてそこからの信心ができれるだろうか。ということをいっぺん、自問自答してみて下さい。ほんとに自分の心が、えー、それこそ、じぶんおこころの、うー、を、開発する事の喜びを、感じられれるというか、今申し上げますように、わたくしにかけた、かけられた御神願が成就するためにというようなところに、信心の焦点が置かれておるんであれば、間違いなく、し、あのー、信心がたのしいもの。それこそ独りでにものができるようなもの。と言う事になってくるんじゃないかと思わせて頂きます。ありがとうございました。